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zoom RSS テーマ「源頼朝」のブログ記事

みんなの「源頼朝」ブログ


佐奈田与一を討ったのは誰れ ・・・ ♪

2016/02/09 12:26
久しぶりに石橋山を訪ねてみました。
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相模湾をはさんで 江ノ島鎌倉方向がきれいに望めます。
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ちなみに、横浜ランドマークタワーも望めます ♪
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先日、佐奈田与一を討ったのは長尾台の長尾定景!という記事を書きましたが、実は、ここ石橋山の佐奈田霊社の与一塚まわりの看板には、長尾定景の名前はどこにも書かれていません
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それどころか、与一を討ったのは俣野五郎だと書かれています 


これはどういうことかというと、

平家方の大庭景親の大軍のなかに、俣野五郎景久の勢73騎がいて(佐奈田与一勢は15騎)、

その中に長尾為景(新五)・定景(新六)の兄弟がいたんですよ。

で、真っ暗闇のなかで俣野五郎と佐奈田与一が取っ組み合いになって、

このとき与一は鞘の中の刀が血まみれで抜けなかったとか、痰が絡んで助けを呼べなかったとかしているうちに、

長尾為景・定景の兄弟が襲いかかり『ここぞ!』とばかりに、俣野五郎を助けて(長尾定景(新六)が)与一を討ち取ったということらしいです。
(『源平盛衰記』による)

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そんなせいで、ここ佐奈田霊社は、「ぜんそく・せき・のどに良い」そうな。



それにしても、長尾定景の砦は大船駅近くの長尾台【A地点】にあって、

俣野五郎の砦は 旧ドリームランドの坂下・境川のたもとにある俣野観音堂の近く【B地点】にあったと言いますから、
(藤沢バイパス入口の西側の台地【C地点】とも言われています)

これは、まさに隣組・隣人のようなもので、ともに助け合って戦ったというのは良い話しではないですか





ちなみに、わたしの家は、この3つ地点の中ほどの台地にあり、

そんなせいもあって、妙に親しみを覚えるというわけなのです






※ 与一塚まわりの看板に長尾定景の名前はありませんでしたが、「新五新六」の名はありました。

 




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長尾台の ・・・ 長尾定景が見せてくれたもの ♪

2016/01/06 14:08
石橋山の合戦で頼朝側の「佐那田与一義忠」を討ち取った人物と、

大イチョウの前で源実朝を殺害した「公暁」の頸を取った人物は同一人物

それがまさに長尾台の長尾定景です。



・・・ というわけで、昔の写真を探すより行った方が早いので、

そそくさと「長尾台」へ。



長尾台ってどこよ   という声が聞こえて来そうですが、

大船観音から北西方向へすぐの 丘続きの場所です。

  (この丘続きってところがポイント!)

柏尾川沿いから細い道を上ると。。。
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その看板が見えて来ます。

ご面倒でも、ぜひ ご一読ください。
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1180年石橋山の合戦(源頼朝が旗揚げしたあと早速負けたあの合戦)で、

頼朝を護っていた佐那田与一義忠を討ち取ったのが、長尾台の長尾定景

そして、

1219年1月、三代将軍源実朝を殺害した別当公暁を討ち取ったのも、長尾台の長尾定景なんです

なんと!頼朝の寵臣(ちょうしん)を討った武将が、晩年頼朝の子の仇を討つ

長尾定景の生年は不詳とされていますが、仮に石橋山の合戦当時20歳であったとしても、公暁を討ったときにはほぼ60歳。

当時の平均年齢は30歳にも満たないというのが定説ですし、

世間の誰よりも分別盛りの年齢に達した長尾定景が、老骨に鞭を討ってその使命を果たしている。


敵が味方に寝返ったり、味方が裏切るなんてのは、今も昔もよくある話しかもしれませんが、

たとえ寝返った後でさえ、ここまで主君に忠を尽くす姿には、感動さえ感じます


写真は、長尾台の北側・県道23号原宿六ツ浦線から田谷の洞窟のある常泉寺方向を見た図です。
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見た通り写真の右側は、柏尾川の河川敷。

鎌倉時代の少し前までは、この辺りは「川」というよりは「入り江」と言った方がふさわしいくらいでした。

長尾台には長尾定景の砦があり、田谷の洞窟辺りは和田義盛の子・朝比奈三郎義秀の砦があり、

少し離れた(今の清泉女学院のある)玉縄も、いずれ北条早雲の砦(城)となるわけですが、

玉縄城が築かれた1513年当時でさえ、柏尾川から相模湾まで船を繰り出すことが出来たといいます。


ついでと言ってはなんですが、材木座海岸に流れ出ている豆腐川さえ、
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鎌倉時代には、商船が上り下りしていたそうですから、

かつての鎌倉は、今の鎌倉の町から「建物を除いた風景」に成り立っていたのではなく、

その半分くらいは海のような風景」の上に成り立っていたのです。

目くるめく昔の風景が思い浮かぶではありませんか



公暁に斬られる数年前、実朝は、東大寺再建に従事していた宋の工人・陳和卿(ちんわけい)にそそのかされ、

大船(大きな船)を造らせますが、結局船は動かすことも出来ず、由比ヶ浜で朽ち果てたと伝えられていますが、

当時の風景の中では、実は、ありそうな話しだったような気もします。


正に 『 歌あはれ その人あはれ 実朝忌 (菅裸馬 (すが らば))』です。




ほんの少し 長尾台を訪ねただけで、

今は昔の とりとめもない鎌倉の情景が、まさに目の前に広がって行きます。


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変わらないのは、青い空だけなのかもしれません










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大庭 ・・・ 散歩 ♪ (大庭城址編)

2015/06/24 10:21
辻堂駅から北へ約3km、引地川を遡ったところに小高い山があって、

車で通る人なら 『こりゃぁ、城跡だな!』と必ず思うようなところが、大庭城址公園です。

この地は、あの右目を射られながらも奮闘した鎌倉武士の鑑鎌倉権五郎景政が開発し伊勢神宮に寄進したと言われており、
鎌倉権五郎景政は後に大庭姓を名乗ります。
築城したのは、大庭景親の父である大庭景宗(鎌倉景政の孫)。
大庭景親は、あの「石橋山の戦い」でしとどの窟(いわや)に源頼朝を追い込みながらも、
同じ大庭軍の梶原景時が源頼朝の命を救った、あの大庭景親です。


では、【しとどの窟】でのやりとりの様子を ・・・・

大庭景親『どうもこの洞窟がアヤしい!頼朝がいるんじゃないか!』
梶原景時『わたしが見てきましょう。』(と洞窟へ入って行く)
源頼朝 『ありゃ!見つかっちゃった  仕方ない自害しよう。。。
梶原景時『まあまあ、死ぬことはない。お助けしましょう
源頼朝 『んっ? ・・・・ えっ
梶原景時『その代わり、戦に勝って天下を取ったら、その時はよろしくね
源頼朝 『んっ、うん、わかったよ。。。』

(洞窟から出てきた梶原景時は大庭景親に向かって、)

梶原景時『コウモリが居るだけでこの洞窟には誰もいないよ。』
大庭景親『そっ、 そうかぁ? でも、念のため わたしも入って見てこよう。。』
梶原景時『まっ、待て! わたしが居ない!と言ってるのに、それではわたしの立場がないだろっ!』
大庭景親『いや、そういう訳じゃなくって・・・』
梶原景時『ならぬ!居ないと言ったら居ないんだよ!』
大庭景親『そっ、そうかぁ。しかたねぇなぁ。。』

・・・ と、この詰めの甘さと妥協と優しさが命取り

もちろん大庭景親はその後斬首 梶原景時は鎌倉幕府の御家人 となってゆきます。

・・・この二人、実はそんなに遠くない親戚同士なのにね



さて、話しはそれましたが



その後、室町時代中頃(15世紀)になると、大庭城は扇谷上杉氏の支配下となり、

扇谷上杉家の家宰であった『太田道灌』が城の改修に当たったとされています。

さらに、戦国時代には北条早雲の支配下となり、玉縄城の支城として改修されたそうな。
空堀などの雰囲気が、大船の玉縄城址周辺と似ているのはそのせいかも知れません。



静かなこの城址公園には、いろんな武将や人物の怨霊が渦巻いており

目くるめく歴史絵巻が、白日夢によみがえるような場所です


公園入り口には、数台が駐められる駐車場もあり、
管理事務所には、古い写真やジオラマで歴史を紹介するコーナーもあり、
チビッコ広場には遊具も充実していて、花々、木々の香りも豊かです

驚くべきは、職員の気配を感じない割に、清掃と植物の手入れが行き届いていることです

いったい、誰が清掃や手入れをしているのでしょうか

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・・・ ふと気付くと、

大勢の武士たちの視線を感じるかもしれませんが

取り憑かれるには年月を重ねすぎています。

だから、大丈夫です




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辻堂 ・・・ 散歩 ♪ (前置き)

2015/06/18 14:24
辻堂は不思議な町。。。

東海道線の藤沢と茅ケ崎に挟まれた辻堂駅は、止まらない電車の多い駅です。

湘南新宿ライン『特別快速』は止まりませんが『快速』は止まる。
快速アクティーも通勤快速も辻堂は止まらない・・・・??

・・・まことにややこしく、用がなければ、つい敬遠してしまう駅なのです。

近年、大型ショッピングセンターが出来て利用者は増えましたが、駅に止まる電車は少しは増えたのでしょうか。


まっ、電車話しはさておき、

鎌倉との絡みで言えば、実は、『頼朝の落馬地』がここ辻堂にあります。

wikipediaには『頼朝は相模川で催された橋供養からの帰路で体調を崩す。原因は落馬と言われるが定かではない。』とまで書かれているのに、、、落馬地が特定されているのも不思議な話しで、

『頼朝が死んだ原因は落馬』という話しはよく聞きますが、

『落馬したのは(今の)辻堂駅南口すぐのところ』という話しはあまり聞きません。。。


ちなみに辻堂はもちろん藤沢市にあります。

藤沢は広い町で、主には「江ノ島近辺」「藤沢駅近辺」「湘南台・長後近辺」「ライフタウン近辺」そして「辻堂海岸近辺」に分かれ、住む人の意識にも大きな差があるように思えます。


箱根駅伝で目にする「遊行寺(ゆぎょうじ)」も藤沢市です。

遊行寺は立派なお寺ですが、藤沢市にあるばかりに、鎌倉観光という範疇からは除かれており、

ちょっと日の目を見ないようなところもあり、残念なところです。



辻堂散歩の話しがしたいのに・・・

前置きだけで、こんなに長くなってしまいました (><);


【本編へつづく】


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頼朝の足跡をたどって ・・・ 真鶴の しとどの窟(いわや) ♪

2012/11/09 23:24
湯河原町と真鶴町の『しとどの窟 本家争い』がずいぶんと懐かしく感じます。

真鶴港の遊覧船乗り場から、
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くるっと振り返って山側を見れば、そこです。
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こんなに小さな窟(いわや)
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ちゃんと説明書きもあります。
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『・・・しとどという鳥・・・』とはホオジロのこと




ところで、この写真は真鶴町立遠藤貝類博物館の1階で見かけたもの。
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なんと しとどの窟が海に面した崖っぷちに

『大正11年・・・・』とありますから、大正12年の関東大震災以前の写真です。


今のしとどの窟は海抜2.5m程度にありますから、

関東大震災の際にいくらか隆起したと考えられます。


もし、それまでの元禄関東地震などでも何度も隆起したと仮定すれば ・・・


源頼朝公が治承4年(1180年)にここに身を潜めた頃は、

それはもう波が打ち付けるような岸壁の洞窟に隠れていたということになります。



じゃあ、頼朝公らを見つけながらも見逃した梶原景時らは、

・・・ 小船に乗って頼朝公らを探していたのでしょうか



こんなに良い入り江ですから、けっこう栄えている漁村があったはずですし、

すぐそばの、波に洗われる岸壁の洞窟に何人もが隠れていたというのは、


あまり現実的ではないような気がしてきました








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頼朝の足跡を訪ねて ・・・ 熱海・頼朝公の一杯水 ♪

2011/06/12 22:31
頼朝がまだ流人(るにん)であった頃、

頼朝は平家方・伊東祐親(いとうすけちか)の娘と仲良くなり、

懲(こ)りずに逢瀬に逢瀬を重ね、当たり前のように発覚 ・・・ !

祐親から命をねらわれ、伊東を一時逃げ出しました。

目的地は伊豆山。そこへかう途中、網代(あじろ)の山道で水が欲しくなり、

刀の柄で大地を突くと、水が涌きだした ・・・・


・・・ というのが謂れです。


今は「頼朝ロード」と呼ばれる道を走っていると、
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4〜5台が停められる駐車場があり、

ほんの2分ほど坂を下ると、
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やぐらが組まれ、
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ほんのわずかに、チョロチョロと水は湧き出していました。
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逆に、駐車場から、3〜4分坂を上ると、
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展望が開け、真下には、長浜の海水浴場も見えました。
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こんなふうに頼朝公の足跡をたどるのは、楽しいです 


いつか、東北征伐の足取りを追ってみたいものです 






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頼朝の ・・・ 気持ち ♪

2010/11/22 22:34
修善寺にある、源範頼の墓。
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何年か前に土台の部分がコンクリートで固められています。

やや悲しい感じです。

範頼は、頼朝の異母弟ですね。

義経とともに数々の功績をあげましたが・・・

結局は、頼朝に信頼されることなく、殺されてしまいます。

かわいそうでもあるのですが、範頼も範頼です。。。。


頼朝が死んだという誤報に接して、

政子に対して、

『なぁに!頼朝公がいなくても、わたしがついていますよ♪』なんて言っちゃうんです。

頼朝が怒るのも無理はありません。


実の兄弟でさえ所詮他人だと思いますが、

ましてや異母兄弟が恋女房にいかにも言い寄らんばかりの発言じゃないですか!


範頼にも、ちょっとはそんな色気のあったに違いありません。

まあ、結論は『自業自得』なのですね。


権力のためには親兄弟さえ平気で殺す時代に、

まさに、殺してくださいと言ってしまったようなものです。



そういう意味では、同じ修善寺に墓があると言っても、

頼家と範頼とでは、その意味合いが全く違います。


悲劇のストーリーが交錯し、涙を誘う頼家と、

なんともお粗末な、自業自得の範頼。




最近のわたしの”奇異なこと”のひとつに”お賽銭寸止まり”がありますが、

この範頼の墓でも起きてしまいました (^^);
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修善寺は、

空気のなかに、確かに歴史が息づいています。
















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修善寺に ・・・ 秋を訪ねて ♪

2010/11/14 22:33
なにやら騒がしい鎌倉から離れて、

秋色の修善寺を訪ねてみました。
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修禅寺本堂


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梵鐘




これは独鈷の湯公園で見かけた看板です。
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なにかお祭りでもあったのでしょうか?

今や、すっかり修善寺の顔となられた、切り絵作家・水口ちはるさんの作品です



修禅寺といえば、伊豆でも古いお寺です。

平安初期の大同2年(807年)に弘法大師が開基したと言われています。

頼朝が流された伊豆蛭ヶ小島からそう遠くもないですから、

頼朝にとってもなじみの古寺であったはずです。


でも、だからといって、範頼(頼朝の異母弟)も、頼家(頼朝・政子の子)も、幽閉された先がここ修禅寺である理由は、

いったい何だったのでしょうね


刺客を送って暗殺することを前提にしていたとしか思えませんが ・・・

鎌倉からは適度に遠くて、やたら遠くはない場所。

罪悪感から逃れられるぎりぎりの距離感、

刺客にとっては、昂ぶった気持ちを持続できる精一杯の距離。


頼家の墓を訪ねました。
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この墓碑のうしろにある、小さな墓石がほんとうのお墓とのこと ・・・
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その頃は、そんなに大きな墓を建てる習慣はなく、小さいのは当然なのかもしれませんが、

見るからに悲しげなお墓でした。


岡本綺堂の『修禅寺物語』では、北条の追っ手に討たれる頼家を夜叉王の姉の娘かつらが、

夜叉王の手による面をつけて頼家の身代わりになろうとして傷を負います。

そして、まさに絶命しようとするかつらを、なんと!夜叉王は写生するんです。
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なぜかこの場面だけは、昔から脳裏にこびりついています。

わたしは、猟奇という言葉からは、まずこの場面が浮かんで来るんです。



「北条の追っ手」と言いましたが、その北条の主とは北条時政であり、

また、頼家の実母である北条政子でもあったのです。


いったい、どんな狂気に包まれれば、家族を討つことが出来るのでしょう ・・・


そんな狂気の渦の中でも、政子は決して母としての心を失わず、

頼家の死後、異常なほどの数の経典を修禅寺に送っています。


昭和59年、修禅寺本尊の大日如来像から発見された髪の毛が、

政子のものか、頼家のものか、辻殿(頼家の妻)のものか、については、

結局じゅうぶんな鑑定がされず、謎を持ち越してしまいましたが ・・・


狂気のなせる業ということで、政子のもので間違いないのでしょう。




そんな時代の、悲しい歴史に思いをはせるには、

静かで美しく、落ち着いた修善寺の町こそが、まさにふさわしい町なのかも知れません。

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合掌。







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頼朝の足跡を訪ねて ・・・ 修善寺 編 ♪

2010/06/27 10:51
ふらっと、修善寺まで足を伸ばしてみました。
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まず、この写真で次々に疑問がわき上がってきませんか
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源 範頼(みなもと の のりより)も、源 頼家(みなもと の よりいえ)も、なぜ?この修善寺で死に、なぜ?この修善寺にお墓があるのでしょうか


範頼は頼朝の異母弟、頼家は頼朝と政子の間に生まれた嫡男。

いずれも(殺した側から見て)近すぎる親族です。

範頼は、頼朝に謀反の疑いをかけられ誅殺され、

頼家は、北条氏の手により暗殺されています。



身内を殺害するのは、たとえ鎌倉時代でも、相当の躊躇があり、つらいことです。

だからこそ、自身の生活圏(鎌倉)から離れていなくてはなりません(@)。

しかも、それなりの宗教的な(仏への言い訳になるくらいの)納得できる経緯もなければならず・・・

伊豆国一の名刹は、その意味からも幽閉の場所としては申し分なく(A)。

さらには、いざヒットマンを送るにしても、頼朝あるいは北条氏にとって修善寺は勝手知ったる場所(B)。

・・・もちろん菩提を祀ることまで、セットで完結できるわけです(C)。


この案内板を見ながら、こんなこと(@〜C)を考え、たたずんでしまいました (><);



修禅寺は、とても立派で格式の高いお寺です。

何か、堂々とした気品まで感じるのは、澄んだ空気と濃い緑に囲まれているうえに、

瓦のつくりに始まって、建物や敷地の構成が豪華なせいもあるようです。
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300円で入れる宝物殿をゆっくりと拝見させていただきましたが、

政子が頼家へ送った経文というのが展示されており、

なんと、そこには、政子の直筆のサインがありました 

誰もいない展示室の中で、『ホントなのっ!?』って思わず声を上げてしまったくらい・・・


さて、修禅寺の鬼門方向(といっても隣接してるのですが)に、

日枝神社があります。
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神社の入口には、こんな立て看板が、
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そう、源範頼が幽閉されていた場所こそがここなのです。

今は、庚申塔がひとつ、さみしく残っているだけですが、
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残っていること自体が(奇跡と言いたいくらい)スゴイことに思えます。


まっ、その後は、お決まりの散歩コースを歩いたりしながら ・・・
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もうひとつの目的。

とある切り絵作家さんのお店を訪ねたのです。
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でも、残念ながら ・・・
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ポストカードや、切り絵シールを買わせていただき、

おみやげにチョコをいただいて、
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帰路についたのです。。。。



今日のオマケ写真は、

修禅寺で遊ぶ、ちょっとオシャレな女の子。
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日枝神社の紫陽花。
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帰り道、気持ちを和ませてくれた紫陽花と黒船列車。
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 今回は、車を修善寺駅に置き、バスで修善寺温泉へ行きました。

  それは、ノスタルジック切り絵バスに乗りたかったからなのですが、

  せめて運行時間くらいは確認してから、行くべきです。(反省&涙;)




  ・・・というわけで、またの機会に、楽しみを残したのでした(笑)


















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頼朝の足跡を訪ねて ・・・ 仁右衛門島編 ♪

2010/01/10 20:27
千葉県鴨川市にある、名勝(?)仁右衛門島を訪ねました。

・・・ と言っても、島のそばまでで、島へは渡ってません (><);
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1180年(治承4)石橋山の戦いに敗れた源頼朝(よりとも)が安房(あわ)へ逃れた際、

島の住人・平野仁右衛門が、島内の洞穴に頼朝をかくまったとか ・・・

頼朝は、後年その恩賞として、平野仁右衛門に、この島と沿岸の漁業権を与え、

平野家は代々島主として世襲し今日に続いている。という話しなのです。

だから、今の島主も、三十数代目の『平野仁右衛門』さん。

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港の向こうに見えているのが仁右衛門島で、2階建ての建物が見えていますが、売店・食堂のようです。


まっ、アヤしい伝説と言えばそれまでなのですが ・・・

いかにもそうな雰囲気は感じられます。


頼朝が逃れた千葉の港がどこだったかなんて、

今となっては、もう調べようもなく、

鋸南町の上陸地のほうが説得力はありますが ・・・・


伝説を大事にする気持ちが現れている、という意味ならば、

仁右衛門島のほうに軍配が上がるような気がします 


すぐそばにあったいい雰囲気の鳥居。
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はばのりを干している風景。
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おばあさんの話しによると、漁協の努力のおかげで、今年はいい値段で売れているそうです


はばのりは、幅を利かすという意味からか、お正月の縁起物なのですね。

帰り道、館山の駅前で見かけましたが、確かに、1枚500円

5枚入りが、2,500円で売られていたのには、ビックリ


これは、途中の道の駅で見かけた、サザエUFOキャッチャー
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大丈夫なのでしょうか



お昼は、地魚の美味しい、館山駅前の回転寿司へ。
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クジラのにぎりは、そんなに美味しいわけではありません。


駅は、静かで ・・・
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菜の花も咲いてます 
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お土産は、こんな感じ。
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青のりを混ぜた焼きのりは、なかなかの風味♪



いくつかの海岸で、ビーチコーミングしながらの、

新春の南房総ぶらり散歩でした。



菜の花が咲き始めると、

どうしても行きたくなりますよネッ (^^)/











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