アクセスカウンタ

zoom RSS テーマ「歴史散歩」のブログ記事

みんなの「歴史散歩」ブログ


俣野別邸庭園あたり ・・・ ♪

2016/02/10 12:23
俣野五郎景久の砦跡であろうと言われている【C地点】。

そこは今は横浜市の公園として整備中(一部開園中)の俣野別邸庭園と近隣の一般住宅地となっています。

十分に広い駐車場もあり、駐車料金も格安です。
画像


不便な場所でもあり、人影は少ないのですが、ちょっと散歩するにはなかなか良いところです。
画像

画像

画像

画像

台湾リスがいっぱいいます。
画像

公園のすぐ横が藤沢バイパスの起点。

見慣れた風景だ!と思われる方も多いはず。
画像

画像


こんなところに『石橋山で頼朝勢の佐奈田与一を討った武将の砦があったのか!?』と思いながら訪ねるだけでも、じゅうぶん面白いのではないでしょうか?


公園の中は静かです。

国道一号線の渋滞の名所のような場所に隣接しているとは到底思えません。

幾度も放火の被害にあった建物が、横浜市によっていずれ再建されるのは楽しみですが、

住友一族がこの地に邸宅を建てて過ごしていたことに何の興味も湧きません。。。。


この地に俣野五郎景久が砦を築いていたということにこそ、

深い感慨を覚え、心が震えますね




長尾定景佐奈田与一俣野五郎景久シリーズはこれで終わりです。





記事へトラックバック / コメント


俣野五郎と ・・・ 長尾定景はどこが違うか ♪

2016/02/10 11:41
前回の続きなのですが、

俣野五郎景久と言えば、俣野の観音堂!と言うことで、早速行ってきました。
(前回の記事中の【B地点】です)
画像

旧ドリームランド、現在の横浜薬科大を見上げる場所が俣野五郎の砦跡といわれていますが、

ほんの二十年前頃まで、境川が氾濫する度に浸水に泣いていたこの場所が砦跡とは到底信じられません。
画像

画像

おそらくこのドリームランドの台地の上か?あるいは(前回記事中の)【C地点】であることは明らかです。


しかし、この観音堂の解説看板(大正地区歴史散歩の会)は、とてもわかりやすく的確で見事です
画像

つまり、
長尾定景は源氏に寝返ったけど、俣野五郎は決して寝返ることなく「武士としていさぎよく討死」したということなのです。

一見上手に立ち回っているようでも、結局老体に鞭打って公暁を斬ることを強要された長尾定景。

その苦しみは生き続けることの代償としては辛いものがあります。

いさぎよければそれで良いのか? 

ただ、そのいさぎよさと母へ守護仏の観音像を送るというやさしさで俣野五郎の人物像が見えるようで心地よいのは事実です。

武士というのは悲しいものです。

しかし、その強い生きざまが無ければ今の日本の文化は無かったわけで、

善くも悪しくもこれが日本人だと、日本人の魂だと言わざるを得ません。



さぁ!あとは残った【C地点】へ行かないわけにはゆきませんね







記事へトラックバック / コメント


佐奈田与一を討ったのは誰れ ・・・ ♪

2016/02/09 12:26
久しぶりに石橋山を訪ねてみました。
画像

相模湾をはさんで 江ノ島鎌倉方向がきれいに望めます。
画像

ちなみに、横浜ランドマークタワーも望めます ♪
画像


先日、佐奈田与一を討ったのは長尾台の長尾定景!という記事を書きましたが、実は、ここ石橋山の佐奈田霊社の与一塚まわりの看板には、長尾定景の名前はどこにも書かれていません
画像

画像

画像

それどころか、与一を討ったのは俣野五郎だと書かれています 


これはどういうことかというと、

平家方の大庭景親の大軍のなかに、俣野五郎景久の勢73騎がいて(佐奈田与一勢は15騎)、

その中に長尾為景(新五)・定景(新六)の兄弟がいたんですよ。

で、真っ暗闇のなかで俣野五郎と佐奈田与一が取っ組み合いになって、

このとき与一は鞘の中の刀が血まみれで抜けなかったとか、痰が絡んで助けを呼べなかったとかしているうちに、

長尾為景・定景の兄弟が襲いかかり『ここぞ!』とばかりに、俣野五郎を助けて(長尾定景(新六)が)与一を討ち取ったということらしいです。
(『源平盛衰記』による)

画像

そんなせいで、ここ佐奈田霊社は、「ぜんそく・せき・のどに良い」そうな。



それにしても、長尾定景の砦は大船駅近くの長尾台【A地点】にあって、

俣野五郎の砦は 旧ドリームランドの坂下・境川のたもとにある俣野観音堂の近く【B地点】にあったと言いますから、
(藤沢バイパス入口の西側の台地【C地点】とも言われています)

これは、まさに隣組・隣人のようなもので、ともに助け合って戦ったというのは良い話しではないですか





ちなみに、わたしの家は、この3つ地点の中ほどの台地にあり、

そんなせいもあって、妙に親しみを覚えるというわけなのです






※ 与一塚まわりの看板に長尾定景の名前はありませんでしたが、「新五新六」の名はありました。

 




記事へトラックバック / コメント


長尾台の ・・・ 長尾定景が見せてくれたもの ♪

2016/01/06 14:08
石橋山の合戦で頼朝側の「佐那田与一義忠」を討ち取った人物と、

大イチョウの前で源実朝を殺害した「公暁」の頸を取った人物は同一人物

それがまさに長尾台の長尾定景です。



・・・ というわけで、昔の写真を探すより行った方が早いので、

そそくさと「長尾台」へ。



長尾台ってどこよ   という声が聞こえて来そうですが、

大船観音から北西方向へすぐの 丘続きの場所です。

  (この丘続きってところがポイント!)

柏尾川沿いから細い道を上ると。。。
画像

その看板が見えて来ます。

ご面倒でも、ぜひ ご一読ください。
画像


1180年石橋山の合戦(源頼朝が旗揚げしたあと早速負けたあの合戦)で、

頼朝を護っていた佐那田与一義忠を討ち取ったのが、長尾台の長尾定景

そして、

1219年1月、三代将軍源実朝を殺害した別当公暁を討ち取ったのも、長尾台の長尾定景なんです

なんと!頼朝の寵臣(ちょうしん)を討った武将が、晩年頼朝の子の仇を討つ

長尾定景の生年は不詳とされていますが、仮に石橋山の合戦当時20歳であったとしても、公暁を討ったときにはほぼ60歳。

当時の平均年齢は30歳にも満たないというのが定説ですし、

世間の誰よりも分別盛りの年齢に達した長尾定景が、老骨に鞭を討ってその使命を果たしている。


敵が味方に寝返ったり、味方が裏切るなんてのは、今も昔もよくある話しかもしれませんが、

たとえ寝返った後でさえ、ここまで主君に忠を尽くす姿には、感動さえ感じます


写真は、長尾台の北側・県道23号原宿六ツ浦線から田谷の洞窟のある常泉寺方向を見た図です。
画像

見た通り写真の右側は、柏尾川の河川敷。

鎌倉時代の少し前までは、この辺りは「川」というよりは「入り江」と言った方がふさわしいくらいでした。

長尾台には長尾定景の砦があり、田谷の洞窟辺りは和田義盛の子・朝比奈三郎義秀の砦があり、

少し離れた(今の清泉女学院のある)玉縄も、いずれ北条早雲の砦(城)となるわけですが、

玉縄城が築かれた1513年当時でさえ、柏尾川から相模湾まで船を繰り出すことが出来たといいます。


ついでと言ってはなんですが、材木座海岸に流れ出ている豆腐川さえ、
画像

画像

鎌倉時代には、商船が上り下りしていたそうですから、

かつての鎌倉は、今の鎌倉の町から「建物を除いた風景」に成り立っていたのではなく、

その半分くらいは海のような風景」の上に成り立っていたのです。

目くるめく昔の風景が思い浮かぶではありませんか



公暁に斬られる数年前、実朝は、東大寺再建に従事していた宋の工人・陳和卿(ちんわけい)にそそのかされ、

大船(大きな船)を造らせますが、結局船は動かすことも出来ず、由比ヶ浜で朽ち果てたと伝えられていますが、

当時の風景の中では、実は、ありそうな話しだったような気もします。


正に 『 歌あはれ その人あはれ 実朝忌 (菅裸馬 (すが らば))』です。




ほんの少し 長尾台を訪ねただけで、

今は昔の とりとめもない鎌倉の情景が、まさに目の前に広がって行きます。


画像


変わらないのは、青い空だけなのかもしれません










記事へトラックバック / コメント


トップへ | みんなの「歴史散歩」ブログ

まっちゃん の 鎌倉散歩生活  歴史散歩のテーマ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる